勝央町では、本町出身または本町に縁故が深く、本町の発展及び社会文化の進展に著しく貢献

された方に勝央町名誉町民の称号を贈り、その功績を称えています。

 

<敬称略>

昭和39年12月25日 追頌

小林 長九郎(こばやし ちょうくろう)

小林 長九郎

マムシにかまれた時の有効な治療法がなく、多くの人が命をおとしていた戦前、マムシ毒研究の第一人者として尽力されました。大正7年に勝央町岡で開業。医療施設に恵まれない農村の健康管理と衛生思想の向上に尽くすかたわら、へび毒の研究を始めました。自ら野山でマムシを採取したり、毒素の実験台になったこともしばしばあったそうです。昭和4年へび毒の研究で医学博士となり、その一生をへび毒の究明に捧げました。昭和27年に、まむし約6,000匹の乾燥へび毒を国立予防衛生研究所へ寄贈しました。その結果、血清ワクチンができ、全国の多くの人命が救われました。

[昭和38年6月 逝去]

 

 

昭和39年12月25日 追頌

万代 順四郎(まんだい じゅんしろう)

万代 順四郎

戦中戦後の時代を銀行経営家として活躍し、現在、世界企業となったソニー(株)の育ての親として近代日本金融・経済界を支えた偉大な実業家です。明治16年勝央町東吉田に生まれ、勝南高等小学校(現勝間田小学校)、作東義塾(現勝間田高校)に学び、18歳で上京。青山学院大学に入学し、苦学の末同校を卒業。同40年三井銀行に入社しました。昭和の初め鐘紡勝間田工場(現カネボウ(株))誘致に努め、昭和16年に勝間田農林学校(現勝間田高校)に4教室1棟、温室1棟を寄贈、同18年には、日本最大の帝国銀行を設立、取締役頭取に就任しました。この頃、日本銀行協会会長等、金融・経済界における多くの肩書きを持った氏に、内閣改造の度、大蔵大臣就任の要請がありましたが、一経営者としての立場を固守。戦中の日本経済を民間の立場から支えつづけました。苦学の人であっただけに、学生や子どもたちが苦労なしに勉強ができるよう、持っていたソニーの株券をすべて母校・青山学院や勝央町へ寄贈しました。

[昭和34年3月 逝去]

 

 

昭和39年12月25日 追頌

定兼 栄三郎(さだかね えいざぶろう)

定兼 栄三郎

岡山県随一の養蚕地帯の旗振り役として地方蚕糸業の振興と農村青年指導の中心人物となって活躍しました。明治6年勝央町植月北に生まれ、同44年植月村名誉助役から村長に就任、長きにわたり村政を主宰し自治功労者として表彰されました。また、明治45年から約32年間植月村産業信用購買販売利用組合(現JA晴れの国岡山勝央支店)の組合長として地元産業施設の拡充や、金融経済の伸展に大きな功績をあげました。なかでも昭和5年、勝田第一製糸販売組合を創設し、植月東に組合組織による製糸工場を設置。植月・吉野・古吉野を中心に千人あまりの組合員を集め、同18年12月に解散するまで、組合長として経営にあたり、蚕糸業の振興に大きな功績を残しました。また、畜産業にも尽力し、疲弊、荒廃しつつあった作北の農家の暮らしを厚生させ、本町産業に現在も継承されている様々な産業組織の基礎をつくりあげました。

[昭和23年1月 逝去]

 

 

 

昭和39年12月25日 追頌

木村 董(きむら ただす) 

木村 董

教諭、校長として地域の教育行政に尽力されました。明治6年に現在の美作市に生まれ、同32年岡山県師範学校を卒業後、「訓導(教諭)兼校長」として南和気、勝南、湯郷各小学校を経て、同38年勝間田小学校に転勤。昭和5年3月退職まで25年間同校校長として子弟教育にあたりました。その間、併設の女学校長、農業補習学校長も兼務し、大正13年、勝田郡立勝間田高等女学校設置に尽力。これらの業績をたたえて、昭和5年11月、校友会が発起し、勝間田小学校に頌徳碑が建設されました。同碑には、故人が勝田郡教育会長、岡山県教育会評議員などを歴任し、美作地域の教育行政に尽力したことを讃える文章が刻まれており、現在でも同校校庭で元気に学ぶ子どもたちの姿を見守っています。

[昭和19年6月 逝去]

 

 

昭和48年11月24日 追頌

額田 六福(ぬかだ ろくふく) 

額田 六福

新国劇や歌舞伎の脚本家として第一線で活躍されました。明治23年勝央町勝間田に生まれ、津中、立命館中学に進学しました。岡山師団入隊にあこがれていましたが、17歳の時に関節炎になり右手を切断、その傷心を糧に好きな文学で身を立てることを決意しました。『演劇画報』に「踏絵」を投稿したところ、選者であった岡本綺堂の目にとまり入門を許されました。その後、家族の反対を押し切り23歳で上京。早稲田大学に通いながら岡本綺堂門下生となり戯曲や脚本を勉強しました。大学卒業後、出生作「出陣」を発表。その他史劇、現代劇など次々と大作を発表。大正15年にはエドモン・ロスタン作「シラノ・ド・ベルジュラック」を翻案した「白野弁十郎」が反響を呼び、以降、数々の名優が「弁十郎」を演じました。平成19年には勝央文化ホールで緒形拳主演により公演されるなどその業績は未だ色あせる事なく生きています。

                    [昭和23年12月 逝去] 

 

昭和48年11月24日 推戴

赤堀 康興(あかほり やすおき)

赤堀 康興

大正から昭和にかけて勝田地域歯科医師会の草分け的存在として活躍されました。明治30年勝央町勝間田に生まれ、旧東京歯科医師専門学校を卒業後、勝間田に歯科医院を開業しました。当時、勝田郡内で唯一の歯科医として活躍されました。勝間田農林学校(現勝間田高校)や勝間田小学校の校医として、地域の子どもたちの虫歯予防や歯の健康な発育のための指導に尽力。勝英歯科医師会長、校医として約30年間尽力され、「作文」「体育」「科学」の赤堀三賞を創設するなど教育振興にも貢献されました。また、郷土の文化人とも親交が厚く、文学者の木村毅、作家の額田六福、画家の赤堀佐兵ら町出身者とも交流があり、特に画家の福島金一郎とは幼馴なじみの同級生で「きんさん」「やっさん」と呼び合うほどの仲でした。
ご高齢になるまで、地域の歯医者さんとして現役で活躍されました。

                   [平成5年4月 逝去]

 

 

昭和48年11月24日 推戴

福島 金一郎(ふくしま きんいちろう)

福島 金一郎

戦前戦後の中央画壇の第一線で活躍されました。勝央町岡にある老舗和菓子屋「板屋」の次男坊として、明治30年勝央町勝間田に生まれました。小さいころお店の包み紙に絵を描いたり、文学者の木村毅が持ち帰った絵などを見て、芸術への夢を持つなど、早くから才能を示していました。神戸仏語学校に学び、昭和元年二科展に初入選。同3年渡仏して巨匠ボナールに師事をしました。同45年「船着場」が仏国政府買上げとなり、パリ近代美術館に所蔵されました。国内では、昭和56年「公園の人々」が内閣総理大臣賞を受賞。晩年、ベルレーヌの詩集をかたわらにおき、何度も読み返しては「こんなに美しい世界に生きられて、本当にありがたいと思うので、いつもそのお礼のつもりで、絵を描いているんですよ」と語っていましたが、その色彩は恩師ボナールの作風を受け継ぎ、どこまでも温かく優しく喜びにあふれていました。

[平成6年1月 逝去]

 

 

 

昭和55年12月17日 追頌

木村 毅(きむら き)

木村 毅

明治・大正・昭和の大衆文化や文学、社会について多角的な研究を行い、“博覧強記(多くのことがらを知っていて、よく覚えているさま)”の文学者・評論家として活躍されました。明治27年勝央町岡に生まれ、子どものころから多くの書物を読みあさり、いろいろなことに精通していました。小学校時代、雑誌「少年世界」に投稿をはじめ、当時全国の文学少年の間では、一目を置かれた存在でした。早稲田大学卒業後の大正12年に「兎と妓生と」(うさぎときせいと)で作家デビューをしました。その後も数々の著作を出版し、中でも「小説研究十六講」は当時16歳の故松本清張に作家を志す決心をさせました。また、サンフランシスコ講和会議に東京新聞嘱託として渡米、その後、東京都参与に就任しました。町公民館に蔵書700冊を寄贈、同館前庭に文学碑を建立し顕彰されました。

[昭和54年9月 逝去]

 

 

平成5年6月24日 推戴

竜門 卓志(りゅうもん たくし)

竜門 卓志

企業経営者として地域産業の振興に貢献されるとともに、地元住民の暮らしにゆとりと潤いを与える福祉・教育・文化事業の充実に尽力されました。
大正8年勝央町黒土に生まれ、昭和12年岡山県立津山商業学校を卒業。同22年、(株)山陽チエンを設立し代表取締役に就任しました。その後、津山慈風会理事や、津山信用金庫理事・監事等を歴任しました。これらの企業活動で得られた利益を地域へ還元するため、昭和50年頃より、勝央町老人クラブ、勝央町社会福祉協議会へ1,800万円の寄付をしました。また、昭和61年に地域芸術文化の振興を目的に8,000万円近い寄付で(財)美作学術文化振興財団を設立し、勝央町郷土美術館管理運営をはじめ、郷土関連資料の発行や“しょうおう”をテーマとした絵画の公募展「勝央の四季展」「みまさか児童生徒絵画展」の開催など美作地域の芸術文化の振興に貢献されました。

                    [平成8年5月 逝去] 

 

 

平成6年11月12日 追頌

赤堀 佐兵(あかほり さへい)

赤堀 佐兵

在野派洋画団体の草分である“独立美術協会”のメンバーとして活躍され、日本の抽象表現における一技法を確立しました。明治37年勝央町勝間田に生まれ、大阪旧関西甲種商業学校(現関大附属高校)を卒業後、実家の「山手屋」(呉服屋)を継ぎ稼業に専念していましたが、画家としての夢を捨てきれず、昭和3年に上京しました。同4年1930年協会第4回展で「阿佐ヶ谷の秋」が初入選しました。翌年、下宿を同郷の作家額田六福氏宅に移り、画業に専念し、数々の公募展に入選しました。同5年、小島善太郎ら新進画家たちが創設した独立美術協会の第1回展に「石切場」を出品。当時、若手画家が競って応募したこの展覧会で見事入選を果たしました。また、同13年の第8回展では「立木」が日本のシュールレアリズムの名作、 靉光(あいみつ)の「風景(眼のある風景)」などと共に、最高賞である協会賞を受賞する快挙を成し遂げます。その後、同協会員に推挙され、主流会員として活躍しました。

[昭和36年3月 逝去]

 

 

以上10人が現在までに決定された名誉町民の方々です。